創建年代は不詳。
当社の別当寺であった富善寺(1617年 元和3年開基)以前に創建されたと推定される。
もともとは久保(現在の朝志ヶ丘一丁目付近)に鎮座していたというが、いつの頃か現在地に遷座。
明治初年に富善寺から離れ、村社列格。
しかし、明治40年の神社合祀令により、浜崎の氷川神社に宮戸熊野神社と共に、三柱神社として合祀された為、跡地は遥拝所として残されました。
当地の人々は合祀に反し、昭和17年に宮戸熊野遥拝所が志木町宗岡村字袋の天津神社を移転した事に習い、その天津神社の御霊を分祀してもらう事で、代わりに当地の鎮守として祀った経緯がある。
昭和31年、三柱神社(氷川神社)より神明神社御祭神を返還してもらい、現在に至ります。
創建年代不詳。
同神社は「うつくしさま」と親しまれ、祭神は市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)です。一説では「いちきしま」が「いつくしま」となり、「うつくしさま」に転化し、「美女」になったとも言われております。市杵島姫命を祭る神社は全国にたくさんありますが、厳島神社になることが多い中、当社は神社庁が包括する全国約8万社の中で唯一「美女」が付く神社です。
子どもの神様とも言われ、疱瘡やはしか、百日咳になったときは、社殿の大きな鈴についている布を腕に巻いてお願いすると、痕が残らず美女になると言われ、はしかが流行すると列を成してお参りし、病気が治るとお礼参りをして、新しい布を奉納したと言い伝えられています。現在も、赤・白・青の布が残されています。
現在でも子供の七五三の時などには参詣する人が多く賑わいを見せます。
徳川時代の地誌「新編武蔵風土記稿(1830年)」には、
「美宮ハ村ノ北ニアリ宇津久志ノ宮ト云ウ」
と記されています。